幕末 上野戦争 彰義隊 2
上野 寛永寺 彰義隊 の弾痕写真を撮影しました。毎度の通勤路の途中ですから、今朝に改めての撮影です。先日の暗くなってからの撮影は初めてでした。
大砲(アームストロング砲?)と銃痕(スナイドル銃?)がまだ残っています。決して、虫喰いのあとではないです。このような歴史の息吹を感じられる箇所が残っている事も素晴らしいです。こちらの寺門は、寛永寺の輪王殿にあります。祖父のお葬式もこちらで執り行い、私は寛永寺にはかなり馴染み(勝手な思い込みで恐縮)があります。
上野戦争、彰義隊の話は地元でもほとんど聞かれない、知っている自分が幕末マニアだからなのか?なのです。私の推測では、賊軍の汚名を着せられた幕府軍で、放置された彰義隊の死体の逸話などから、彰義隊はあまり触れらえれない出来事かなと勝手に想像しています。上野は西郷さんの銅像の方があまりに有名だし、で。
そして、彰義隊のお墓は存続危機や管理に大変な苦労をされており、現存している事は大変有難いことです。日暮里の団子屋(羽二重団子)にも彰義隊が脱走の為に置き残したと言われるゆかりの品が展示されてます。
少し、歴史観点から離れる、駄文になります。
又、心霊話、霊体験系で、彰義隊のお墓近辺は語られる事もあるようです。あの辺りで、出るというか、お侍、武士の類の姿?をらしいです。プログ検索でもその辺りは何もないので、興味本位の言い伝え?ネタでしょうか。話は変わって、場所は御徒町駅近くにはなりますが、NTTの建物(元幕府側系の藩主屋敷跡)にも彰義隊の逸話があり、その霊を鎮める為に祠があるそうです。(祠はビルの屋上?らしいので未見)上野の歴史本に記述もあったので、彰義隊の敗残した悲しい逸話は探せば出てくるかもしれません。彰義隊の無念、怨念はどこかに残っているかもしれません。
数十年前に、御徒町駅下の地盤落下事故があった時に、このNTTの建物の祠の事をすぐに考えました。犠牲関係者に官軍か、藩主屋敷で助けを求めた彰義隊士の手当てを拒んだ諸藩のゆかりの方かとか、あらぬ憶測をしましたが、実際は何も?不明です。私の単なる、行きすぎた思い違い?でしょう。事故との因果関係まで考えたのは、八ッ墓村の影響?があっての私の単なる根拠のない、憶測です。
興味本位で10代の若かりし頃に、地元でもあるし、何かの勢いで、夜の彰義隊お墓に肝試しみたいな事をしましたが、とくには何もなく。ただ、何時行っても、あのお墓近辺は薄暗くて、ひっそり、喧騒を離れたような佇まいで、鎮座されてます。あの目に見えない、緊張感みたいな張り詰めた動悸は自分?だけかもしれません。お線香は常に焚かれているので、全く忘れられた存在ではないので、判る方は判る、訪れる度に安心?してます。
上野戦争では、住民は彰義隊の傷の手当てや食事提供をその後のとばっちりから恐れて無関係でいて、かつ、見せしめの為に彰義隊の死体は放置されました。何の為に戦うのか、義の為か、又、無念で死ぬ思いでいた方達がこの場所に大勢おられたかと思うと、こころ痛みます。
新撰組関係のプログで知った、「彰義隊ーわれら義に生きる」 星 亮一 氏 (著)は、今、読みたくなっている本です。
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