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2010年11月30日 (火)

旧・陸軍登戸研究所 風船爆弾&鴈札の製造 In生田

生田
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数十年前に通学していた学校内に「旧陸軍登戸研究所」が存在していた事は知っていたけど、当時はその詳細を知る由も無く数十年~改めて、現在、本年開設の資料館を訪れてからの衝撃により、引き続いて記述します。

思想や賛美卑下など一切関係なく、自分達がまさに使用していた校舎や校内で、こういう歴史的事実があった事を自分の日記用に記述する為だけです。

幕末歴史ファンなので歴史全般には大変興味があり、戦跡や戦跡にも関心を持っています。戦争に関しては、古典的内容の愛読書ですが「クラウゼヴィッツの戦争論」から「防御こそ最大の攻撃」には感銘し、ある程度のミリタリーバランス保持力は必要かなと思っています。

旧陸軍登戸研究所、正式名称:第九陸軍技術研究所の歴史についての詳細はあえて記述しませんが、端的に説明すると、昭和12年から開設された旧陸軍の特殊な秘密戦(諜報・防諜・謀略等)の為の兵器や資材を研究開発した機関という事になります。

そこでの開発研究は、国際法規上に問題を有する暗部や人道的側面配慮の観点から、日中戦争から太平洋戦争の歴史の学校教育や一般的な報道・記事などに於いて取り上げられる事も少なく、ほとんどは知られていません。

研究所は、大まかに、第一科:電波兵器や風船爆弾などの物理学利用の兵器開発、第ニ科:生物化学兵器やスパイ用具の開発、第三科:鴈札などの経済謀略活動、に分類されています。

最初の写真は、第一科開発「風船爆弾」(正式名:ふ号兵器)の模型(資料館パンフより写メ)です。

風船爆弾と聞いての第一印象は、「よくそんなオモチャみたいな兵器で・・・・」とか、「コンニャクを使用した」とか、「やっぱり失敗じゃないか」と卑下するような見方がほとんどか?と想像します。普通に風船爆弾と言えば~小学校で流行った水玉風船でのイタズラとかを思わず連想してしまいます。しかし、私は初めて知りましたが、実はとても高度な技術力の集大成と兵器利用としての攻撃有効性を知り、驚愕しました。

技術的には、気球を飛ばす気象知識~偏西風・高度維持の気候・気温対策、爆弾投下と投下後の自動自爆装置など、当時の知識人・技術者を招集しての最高技術レベルの結束の元で生み出された兵器であります。登戸研究所への予算割り当てが無い~つまり、好きなだけ予算を使用して良いという特例が与えられており、秘密理に全国から錚々たる技術者が集められた、大変レベルの高い国家プロジェクトであったと見えてきました。

風船爆弾の米国本土への到達・着弾率は、まだまだ不明瞭かな数値?ですが、10%以上だったらしいと推測されてます。なんだ10%、10発で1発程度・・・・ですが、日本からの米国への距離、風船という気象の特殊条件、当時の各種技術力レベル、諸々条件を考えても、到達出来ている事は、かなりの精度と思います。米国軍部では風船爆弾に対して、その特殊性から報道規制を引き、米国国内でも内密処理された事を考えると、二律背反、脅威の存在として捉えたと判ります。少数ながら、風船爆弾による被害の記録が残されています。しかし、なぜ?風船ぐらいで、米国軍部がそんなに過敏になるのか、その歴然たる理由が他にありました。

これで風船爆弾の話が終わりではなく、これからが驚愕の史実と知りました。

風船爆弾はアメリカ本土到着後に自動的に焼夷爆弾が投下されます。何処に落ちてくるか判らない兵器としての恐怖はありますが、アメリカが最も恐れた理由は、落ちてくるのが爆弾ではなく、生物兵器・細菌爆弾の可能性が実現的になったからでした。

第ニ科では、風船爆弾に搭載する生物兵器(牛疫ウィルス)の開発に成功していました。この開発の情報が米国を不安に陥れた要因です。

宮崎牛の口蹄疫騒動でウィルス感染恐怖をNEWSで見ていたので、伝染疫病の恐ろしさは判ります。研究所での牛疫ウィルス開発の意図する処には、家畜牛を感染させる事で牛肉の食料確保を断絶する狙いがあるのです。このウィルスで人的な殺傷被害はないですが、あの宮崎県騒動を見ても、家畜とはいえ、人間にも相当の精神的ダメージ被害の誘発を図り知れません。そこで、牛肉を主に食す米国人には、とてつもない事態や騒動を引き起こし、パニックを誘発~国内撹乱~戦争どころではない~国力ダウン~そのスキに攻撃を意図した計画があったのです。

最終的に国際条約観点からの世界批判もあり、旧陸軍はそのウィルス使用を見送ったそうですが、大戦末期の切羽詰まった旧陸軍がそれを発動しかねない事態を懸念して、米国知識人内で情報精査、終戦を急ぐ為に小さいボーイの投・下理由?とも、ちょっと考え過ぎてしまいました。 

一方現在、当時の風船爆弾の開発での技術の一部が、ハイブリッド車の燃料電池のカバー部の製品開発に利用され役立っているそうです。電子レンジ、携帯電話などにも、この研究所での開発技術を元にした部品開発もあるので、意外な側面も知りました。日本の技術が、便利になっていく日常生活用品の開発に役立つ事は喜ばしいですが、この様な関わりまでに繋がりがあるというのも複雑な気持ちです。

2枚目からの写真は、第三科:鴈札の工場建物です。

長期化してきた日中戦争の打開策の一つとして、経済的な国内撹乱を狙う謀略作戦に法幣偽札を製造・流布していました。戦線の拡大・泥沼化しつつある戦いを、銃や大砲などの暴力でのいたずらな消耗作戦を避け、経済混乱などで国家を揺るがせ、弱らせる謀略作戦を実施してましたが、思ったほどの効果はなかったそうです。

3枚目からの写真、第三科:鴈札製造が行われた工場建物の裏側や背部ですが、老朽化の痛みで損食激しく、取り壊しが近いそうです。同潤会アパートなどと同様の建築様式で、印刷機を動かす為に天井が高く設計され、最後の写真では機械を動かすレールが見受けられるなど、珍しい部分が見受けられます。

学生時代には、この様なバラック建物がまだまだあり、普通に実験授業でも使用したりしてました。この建物の前は来校時に必ず通り過ぎていた、日常の風景・思い出の中に存在です。当時、校内にあった、作りが似たような木造バラック建物が碁盤状に複数並んでいる姿は、写真で見たドイツ収容所のバラック風景を連想し、よい気持ちではなかったです。

写真の建物の対面にも以前は木造校舎がありましたが、既に取り壊しの重機が多数入っており、この写真の建物が最後?の現存する当時木造建物ではと思います。来期には、写真の建物は無くなっている可能性です。老朽化の危険もあり、避けられない事態だそうです。

当時は、多少の疑問に思って通ってはいたが、知る手立てがないまま、何となく~約20年後の今、資料館のおかげで判る事が出来て、もやもやが解消された感じです。

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