:熊本市観光情報サイト 満遊くまもと VOL.30 歴史と湯処のまち、植木町:http://www.manyou-kumamoto.jp/html/S752.html
:田原坂資料館パンフレット:http://www.pamph-navi.jp/art/view_dynamic/pdfView.php?src=pam10003768
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熊本空港からバスで熊本駅へ、レンタカーで植木町・田原坂へ行きました。
事前チェックで「JR鹿児島本線・田原坂駅」があるもの、無人駅で、しかも資料館のある田原坂公園(たばるさか、×たわらさか)まで30分以上の徒歩必要であり、公共交通機関を諦め、レンタカーで、西南の役・田原坂の戦跡巡りです。
熊本市内から田原坂までは国道3号・208号線で約10Km、クルマ時速40~50キロでそんなに掛からないだろう?・・・・が大きな間違いでした。国道3号は途中から2車線→1車線になり、頻繁にある緩やかなカーブの連続、高低差のある起伏道路、バス停留所で激しく渋滞し、行きも帰りも実に片道1時間以上を費やしてしまった!、所要時間計算ミスでした。
田原坂の戦役歴史については↑の資料館パンフがとても参考になります。
熊本城を建てた加藤清正が、熊本城へ続く主要道路の要として田原坂を開墾、簡単に城まで辿り着けない防御の為、わざと起伏の激しい険しい道路にしたとの事でした。
西南戦争時の田原坂は、熊本城へ大砲などを運べる唯一の主要幹線道路で、この田原坂を越えなければ進軍出来なかった戦略上の重要地点であり、薩軍・官軍の激戦地となりえました。そのせいか?今でも?熊本から田原坂のある植木方面は渋滞の難所?なのかどうか、加藤清正が敵の進軍を食い止め遅らせる地形の理を利用した道路の名残か?熊本城までの道路に至るまで計算された恐るべし難攻不落の防御頑固な城郭と言う事です。(現代では道路も整備されていると思うけど、1車線の道路はカーブも起伏も多い、所謂自然渋滞の起こり易い原因かも?)
資料館では、地元ボランティアの方が色々説明をしてくれて助かりました。激戦を物語る空中衝突弾、弾痕の残る戸板、官軍連隊旗、戦役地図、当時の風景写真、薩摩・官軍のマネキン軍装比較、エンピエール銃・スナイドル銃の性能比較、戦闘中に救護に当たった博愛社(日本赤十字社 の前身)の歴史などを見学です。
資料館内には軍装のマネキン以外にナースのマネキン展示もあり、西南戦争において敵味方の区別なく救護を行う博愛の精神、その後の日本赤十字社の発祥とは初めて知りました。
当時の軍装や看護婦のコスプレで記念写真を撮れるサービスコーナーもあり、大人用だけでなく子供用サイズも揃ってました。戦役当時の時代設定に合わせて、装備の乏しかった薩軍用はわらじ!も用意され、抱え銃の貸し出しもありました。新政府側の官軍はラシャ地の軍服、革の軍靴、一方、薩軍は着物にわらじのスタイルでしたので、この辺りの装備比較でも完全に官軍優位と思いますが、田原坂攻略には両軍共々相当の犠牲を払った事は、やはり、地形の利が生かされた戦闘だったと思い起こされます。
又、官軍側の連隊長として従事した、ドラマ「坂の上の雲」 ・映画「二百三高地」の乃木希典将軍 のエピソードも説明されてました。戦闘中、連隊旗を薩軍に奪われた責任の自責で切腹まで図った!という、くだりでした。
更に、田原坂での戦闘では、薩軍の地の利を生かしたゲリラ的戦法で官軍を相当悩ましました。性能の良いライフルで装備した官軍ですが、狭い坂道で突発的に襲ってくる薩軍のゲリラ戦法~刀による切り込みで被害が大きかったそうです。突然、狭い坂道で四方から切り込んでくる決死隊の攻撃には、官軍(まだ新設の軍隊)もパニックになり、戦局後退の要因にもなりました。
この薩軍の少数精鋭・刀切り込み戦法に対応苦慮し悩んだ明治新政府は、警察官から新たに選抜された「抜刀隊」を編成、投入し、田原坂での激戦の流れを官軍優位にと変えていきました。ちなみに、この抜刀隊には隊長クラスで新撰組三番組組長の斎藤一 も加わっています。戊辰戦争で薩摩に負けた幕臣側の出身が多かった「抜刀隊」は、薩摩へのリベンジのごとく、勇んだ精鋭でもあります。
詳細は不明ですが、田原坂戦闘での「抜刀隊」の成果により、明治新政府の警視庁で編成された「警視庁抜刀隊」は、意外にも、その後の警察学校での武道訓練の剣術(剣道、居合道)にも繋がり、心身の鍛練に活用、今でも継承されきたそうです。
明治維新で一度は武士の魂である刀が廃止、帯刀が廃止されたはずなのに、田原坂戦闘の苦戦を機に今一度、「刀」剣術が見直された?感じでしょうか。
剣や刀より鉄砲の時代はさることながら、狭い場所や急襲性の戦闘では刀・剣の方が勝敗を決め、接近戦では迫力がありそうです。この当時の田原坂では、初弾を外すと次の弾を込めている間に飛び出して抜刀した薩軍にあっさり倒されたと思います。
私も小学生時代には剣道を習っており、先生方はほぼ現職の警察官でした。まさか?西南戦争からの剣術繋がりで、現代の剣道を知らずに習っていたのか?という見方も頭を一瞬過る思いです。「今の時代、なんで剣道なの?」なんて気持ちは持ちつつ習っていた小学生時代でした。
以下、注意:思想も根拠も無いログ
果ては、太平洋戦争などでの日本軍将校の帯刀、米軍への突撃戦法(抜刀で切り込むスタイル)なども、この「抜刀隊」誕生の経緯の流れを汲んでいるそうです。
機関銃で装備した米軍の敵陣地へ刀で切り込んでも何の意味があるのか、無駄死にではないかと思っていたけど、夜間の暗がりに抜刀して切り込んでくる決死の「ジャっプ」にビビる米兵の姿は想像出来る・・・・だけどマシンガンの前に刀の切り込みはいやはやなんとも無意味そう・・・・装備に負けても精神面は勝った、でも現実の結果がねぇ・・・・です。
映画のシーンでも多いけど、帯刀している将校姿や軍刀を振りかざして突撃する日本兵の姿は無意味な有り様のようだが、しかし「抜刀隊」から受け継いだ精神的な繋がり、戦意高揚鼓舞が少なからず意味を成していたのです。(恐ろしいですが)
参考HP、抜刀隊と日本の帝国主義 :http://www.portalshit.net/46
抜粋↑田原坂の「薩軍がもう少し弱かったら、日本はノモンハン事件あたりで刀を鞘に納め・・・・」の解説は、場合によっては太平洋戦争を避けられたのではとも?ある意味、参考になる考え方の1つとも思えます。
さらに「抜刀隊」の影響として、軍歌・抜刀隊 として起用、フランス人作曲による日本最初の洋式音楽、大戦中の日本軍、現・陸上自衛隊でも使われています。
参考 陸軍分列行進曲 抜刀隊 :http://youtu.be/hr59m_me3NY 、http://youtu.be/MEYBMpk4ZUM、 http://youtu.be/d62a_3rl0PU、
1943年10月21日東京明治神宮外苑競技場 学徒出陣で用いられた楽曲で、何かしらで聴いたことのある耳に残るテンポでした。
リメイク映画1995’作品「きけ、わだつみの声 Last Friends」ラクビー選手の織田クン将校、「独立愚連隊」タイプな的場の九六式軽機関銃&サイドカー、鶴田真由の従軍看護婦、遠藤憲一の軍人将校などで出演、オープニングとラストの競技場シーンでもバックに抜刀隊楽曲が流れてました。
参考:http://youtu.be/zKBdMqkerPM
大学ラクビーの試合で観戦していた場所がとも思うと、ちょっと複雑な気持ちです。今回の震災で自衛隊の存在価値を改めて意識しているが、我々日本人の精神の何処かしこに「抜刀隊」の歴史的繋がり&精神が関係しているとするなら、良い方向でもって今の経済難局も抜刀隊精神で乗り切ってと・・・・そうは簡単には上手くいなかないかな?。
そこまで無理に「抜刀隊」を結び付ける意味ではないが、田原坂の現地に立ってみて、少なからず影響があったと、思いは特に強くなりました。
改めて、長年の訪問を切望していたので、じっくりと田原坂の史跡巡りを徒歩でして来ました。
田原坂公園の頂上から丘稜地帯を眺めると景観はとても素晴らしいですが、麓からの標高差(僅か80m)の田原坂~一の坂、二の坂、三の坂と頂上まで1.5Kmの曲がりくねった道を辿ると、険しい坂道に苦労します。当時は、狭い坂道を囲まれるように前後左右から薩摩軍の攻撃を受けた官軍の苦戦の様子も感じられます。
当時のままで残っている橋や道路区画、神社の弾痕、かつての激戦地とは程遠い、のどかな丘梁地帯に囲まれています。
熊本の歴史観光情報でも熊本城がメインであり、田原坂戦役の事については多くは掲載されていません。陽の当らない戦役歴史ですが、私の様な歴史ファンには見応えのある場所でした。
西南戦争での最大の激戦地となった田原坂戦役ですが、「抜刀隊」関連からまさかの「きけ、わだつみの声」までの繋がり、何となく、重い気持ちで史跡巡りもしていました。
又、ついでというかネタというか、田原坂(現・植木町)は元マラソン選手の松野明美さん の出身地であり、選挙関連のポスターが多く貼られていました。
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